チベスナダイアリー

誰もまだ此れ程の阿呆の日常をありのままに書いたものはない。

日常の「絶対化」〜谷川流『涼宮ハルヒの消失』感想〜

涼宮ハルヒの消失

 

あらすじ

「涼宮ハルヒ?それ誰?」って国木田よ、そう思いたくなる気持ちは分からんでもないが、そんなに真顔で言うことはないだろう。
だが、他のやつらもハルヒなんか最初からいなかったような口ぶりだ。
混乱する俺に追い討ちをかけるようにニコニコ笑顔で教室に現れた女は、俺を殺そうとし、消失したはずの委員長・朝倉涼子だった!
どうやら俺はちっとも笑えない状況におかれてしまったらしいな。
大人気シリーズ第4巻、驚愕のスタート!

 

感想

__感想を頼めるか?

「可能。ただ、下手なことを書くとその解釈に時空平面が固定化される。推奨はできない」

__いい。それでも俺はお前を信じてる。

 

とにかく面白い超面白い

最高傑作と名高い『消失』。噂に違わぬ内容でした。

いやーそれにしても面白いこと面白いこと!長い物語の面白さについて前回語りましたが、もうそれがこれでもか!と、ケチらずアホほど詰め込まれている。それこそ「闇鍋」的魔作。

『憂鬱』でのキョンの選択のリフレイン。『笹の葉』の伏線回収。そして『退屈』全体で描かれた長門の問題の結末。異常性のないSOS団という皆が見たかったifに、SFとミステリと萌えとジュブナイルとセカイ系が混ざる。しかしそんな混沌の中にあってなお、味は「日常/普通/大人になるとは何か?」という「ハルヒ味」を確かに残しています。過去を余すところなく燃料に、時空も、異常能力も、常識もぶち抜いていく。そんなん面白いやんの連続。

名作たる長編物語って、絶対盛り上がる要素を1つの話に幾つもぶち込むという、ある種の羽振りの良さがある気がします。

ただ、ここまでのものを見せられると感想を書く側は「とにかく面白ぇ!」意外言うことないですね……

 

「消失」世界

論理学の最も自明な事実に、「A=BもしくはA≠B」というものがあります。A=B、つまり同一性は反復という形で現れ、A≠Bは差異として表現される。そして、物語のふたつの場面において、それらがある部分では前者の論理が、他の部分では後者の論理が適応され、渾然一体となるところに、「対比」が生まれ、意味が生まれる。ほとんど同じもの同士を重ね合わせた時、ほんの僅かに異なるところにその物語の主張が詰まっている……というのは、僕の好きな言説なのですが、「消失」の世界(改変された世界)はこれでもかと対比に満ちています。同じ人物が生きている。しかし、いるべき人がいなくて、居てはならない人がいる。在るべきものがなくて、ないと思われていたものがある。

涼宮ハルヒとキョンはとことん対になる存在だと思ってやまないのですが、この世界ではいつかのハルヒのように、キョンが校内中で「異常者」として扱われているのが面白いですね。また、SOS団のメンバーに対しても、かつて「世界の秘密を打ち明けられていた」キョンが、消失世界では「平行世界の存在を語る」存在になっているのも対比。ハルヒ視点では、「転校生」だった古泉のみが「初めから同じ高校」になってるのも対比ですよね。キョンは完全に異世界人になっている。

何かがおかしい。でも、どこが間違いかが分からない。そんな時、確実に使える処方箋が一つだけあります。それはオリジンに戻ること。初めからもう一度再構築し直すのです。長門が意識したのか、それとも情報生命体すらも抗えぬ世界の真理か、まさにコンピュータの「再起動」。キョンは奔走し、かつてハルヒが第1巻たる『憂鬱』にて行ったようにSOS団のメンバーを部室に集めることに成功します。しかしそれだけでは事態は解決せず、もうひとつのオリジン、3年前の七夕へと回帰するのです。

やはり「笹の葉ラプソディ」はハルヒ世界の第1話であって、独立した一葉でなく枝であるが故に、単独で存在していなかった。ただ、それがまさか2つの世界という特大の分枝を支えるほど極太とは思っていませんでしたが……

最後には、真相編を兼ねて長門が改変を行った瞬間、真のオリジンで決着がつくと。

シリーズを通して描かれる「日常」とは、なんでしょうか。それは差異の殆どない無意味だが尊ぶべき反復です。しかし、その日常(ケ)が何らかの断絶によって失われた場合(ケガレ)はどうするのが正解か。古代人の知恵では、オリジンたる神話を反復する祝祭(ハレ)によって日常を回復させるとのこと。キョンはこれを完全に再現しました。すなわち、『憂鬱』でハルヒとキョンがなぞった道筋を、『笹の葉ラプソディ』でかつての自分が幼いハルヒに話しかけたという事実を反復することで、見事に日常を復活させていく。最後には、自らが殺されるシーンへの介入までを反復することが示唆され……作者の人そこまで考えてないと思うよ案件な気がしますが、タイムトラベルと民俗学的な日常を「反復」という点で重ねさせてみる。そんなのも面白い見方だと感じるのです。

 

長門有希

おいなんだこいつ可愛すぎないか?????そんなのさぁ!!好きになっちゃうじゃんよ!!!

『退屈』で書きましたが、ちょっとあざとすぎる。これじゃ「あざとゆき」どころか「あざとすぎ」だよ〜!世界線を超えるという荒業でギャップ萌えを実現するカワイイヤクザ。

『退屈』での予想通り過去改変能力者でしたね。遡及的に『退屈』の構造の美しさも保証されました。構造厨なので嬉しいですね。

そんな構造厨的には、キョンと別の意味でハルヒと対比されるべきなのは長門なんじゃないかと思うことがあります。『憂鬱』では、ハルヒの異常性は「王子様のキスで目覚める」というありふれたストーリーに帰着する形で矮小化され、『消失』では長門の異常性が「感情を持ったロボット」というこれまたありふれたストーリーに帰着する。神人に脅えていたハルヒと、キョンに脅えていた長門も重なります。

何も知らないで世界を書き換える少女と、全てを知った上で世界を書き換える少女。異常を求める少年の前に現れた異常しかない異世界と、平凡を求める少年の前に現れた異常のない異世界。そういえば、消失世界の長門は中盤小説を書いていましたよね。『溜息』ではハルヒは映画監督(創造主)としての役割だったことをふまえると、同じく「創造主」という立場を想起させ、まあこの騒動の犯人は長門だろうなと予想できるようになっていました。感覚で世界を書き換えるハルヒと、全てを言語化して書き換えていく長門の対比っぽくもありますね。

しかし、そこまで重なる要素があってなお、ハルヒとは口付けで元の世界に帰り、長門には銃を突きつけることで元の世界に戻る。そこにある絶望的な差異の断絶に、長門の悲哀を感じざるを得ないですね。

この対比から踏まえると、長門はキョンへの恋心もありながら、もっと言うと「全能感」に絶望したのかななんて気もしてきます。『溜息』のハルヒは思春期の全能感に駆られてSOS団を振り回し、キョンは無力感に辟易していた。彼ら二人を監視し続ける万能にして世界の全てを知る(=多層性を奪われた)長門は、その姿の憧憬からか、いつしか自身の持つ力の必要のない世界を作り上げた。ただ、かつてハルヒが自身の思い通りにならない男の子を閉鎖空間に入れたように、長門も思い通りにならない男の子を自身の世界に入れた。こう見ると対比が綺麗に決まりますし、全能感と多層性というハルヒのテーマにも繋がる。

もうひとつ考えられるのは、長門は「ハルヒより成長の遅い存在」の象徴なのかなとも。感情というバグが産まれたばかりの長門は、殆ど子供のようなもの。ハルヒ(とキョン)が陥った思春期特有の悩みは、感情持つ者に対して恐ろしく平等でした。『憂鬱』ではハルヒはみくるちゃんに嫉妬して閉鎖空間を生み出していたのを見るに、『消失』事件の原因は長門がハルヒに嫉妬したものと考えられるのかな。何よりこう見ると、大人の象徴としての朝比奈、キョンと同年代のハルヒ、そしてハルヒよりも幼い長門と三人娘がそれぞれ未来現在過去に綺麗に対応しますしね。長門(というより情報生命体)が「成長」のために涼宮ハルヒと接触しているというのも、示唆的に見えます。ハルヒに1歩遅れる形で、ハルヒと似た事件を起こす。しかし、それは「日常という現在」を肯定するこの物語とキョンという主人公において、ハルヒとは異なる悲しい結末を運命づけられてしまったとして、あの結末にも説明が着きます。みくる(大)が3年前の七夕で出張ってきて、キョンに思い出話をしたのもいかにも「大人」的な哀愁がありますよね。ただこの解釈だと、古泉お前は何者なんだ。成長(自我)を放棄した組織の歯車みたいな感じなのかな。

ううむ難しいですね。

あとSOS団、キョンとハルヒ以外の仲が悪すぎない?彼らって長門と古泉と朝比奈さんで遊びに行ったりとかするんですかね。

 

キョンの選択

涼宮ハルヒシリーズが「ハルヒが大人になるまでの物語」であるとする時、避けては通れないのがハルヒと対になるキョンの「大人化」です。『消失』は、ハルヒの影に隠れて描かれなかったキョンの成長を描き出します。

『消失』の中でキョンは、「聖的なもの(SOS団)を見つけ出し、」、「それらを聖地(部室)に集めること」で、「かつての神話(『憂鬱』)を再現し」、「挙句一度死んで再生し」、「世界の創造主たる母(消失長門)を撃ち殺す」という、極度にシンボル化された通過儀礼を行うことで、世界は再構成され、その秩序(コスモス)を取り戻しました。これまで頼りきりだった「長門」を否定することは、母親からの自立、出産を彷彿とさせます。

この儀礼の末にキョンが得た結論は、「世界に対して積極的に関わっていくこと」。やれやれ系をやめた……のかはこの先を見ないと分からないですが。それは『溜息』でハルヒが見せ続けた「万能感、有能感」への接近であり、キョンの「無力感、多層性」への否定です。長門が作った世界は、異常性は一切ない「単層的」世界です。

『憂鬱』ではキョンはハルヒにキスを、(消失)長門には銃を突きつけます。ハルヒは異常な世界にあって日常の象徴。消失長門は異常な世界側の人なのですね。キョンにとっての、日常の肯定が読み取れます。ここに、キョンにとってかつて相対化されていた日常/ハルヒは、最も尊ぶべき物、何があっても元に戻すべきまのに変貌していたこと、すなわち「日常の絶対化」が読み取れます。こうしてキョンは、自身の中に価値軸を打ち立て、「大人」へと1歩進みます。なくなって始めて価値がわかる……というのは、言い古された陳腐な結論ですが、そこに尽きるが故に陳腐化するまで唱えられたのでしょう。

それが『涼宮ハルヒの消失』の顛末と解釈しています。

しかし、今回何となく影が薄かった対の存在たるハルヒにも、そこはもちろんと言うべきか、また別の「消失」を味わっていました。キョンは頭を打って3日間寝ていたんですよね。ハルヒにとっては「キョンの消失」が、あくまで(異常性の隠蔽された)日常の中で起こっていたというのは、面白いですね。この一時的な消失が、彼らにどのような成長をもたらすのかは、冬が終わり、春が来る……彼らが2年生に進級するのを待たなければわからないのでしょう。

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