チベスナダイアリー

誰もまだ此れ程の阿呆の日常をありのままに書いたものはない。

訓戒 ver3.0

1

(編者補足:自身の死後という内容の夢の中で)

僕はちょっとSの顔を眺めた。SはやはりS自身は死なずに僕の死んだことを喜んでいる、――それをはっきり感じたのだった。

(芥川龍之介『死後』より)

2

(編者補足:自身の死後という内容の夢の中で、妻が悪い男と再婚していたことに対して)

 妻は櫛部某の卑しいところに反って気安さを見出している、――僕はそこに肚の底から不快に思わずにはいられぬものを感じた。
(中略)
「何と言う莫迦だ! それじゃ死んだって死に切れるものか。」

(芥川龍之介『死後』より)

3

僕達のイギリス文学科の先生は、故ロオレンス先生なり、先生は一日僕を路上に捉へ、 日々数千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能はざりし故、唯雷に打たれたる唖の如く瞠目して先生の顔を見守り居たり。

先生も亦また僕の容子に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?”僕、答へて曰く、“No, Sir.”先生は――先生もまた雷に打たれたる唖の如く瞠目せらるること少時の後、僕を後ろにして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは実にこの路上の数分間なるのみ。

(芥川龍之介『その頃の赤門生活』より)

4

僕は時々暴君になつて大勢の男女を獅子や虎に食はせて見たいと思ふことがある。が、膿盆の中に落ちた血だらけのガアゼを見ただけでも、肉体的に忽ち不快になつてしまふ。

(芥川龍之介『僕は』より)

5

僕は度たび他人のことを死ねば善いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中には僕の肉親さへゐないことはない。
     ×
 僕はどう云ふ良心も、――芸術的良心さへ持つてゐない。が、神経は持ち合せてゐる。

(芥川龍之介『僕は』より)

6

僕はいろいろの人の言葉にいつか耳を傾けてゐる。たとへば肴屋の小僧などの「こんちはア」と云ふ言葉に。あの言葉は母音に終つてゐない、ちよつとロオマじに書いて見れば、Konchiwaas と云ふのである。なぜ又あの言葉は必要もないSを最後に伴ふのかしら。

(芥川龍之介『僕は』より)

7

僕はいつも僕一人ではない。息子、亭主、牡をす、人生観上の現実主義者、気質上のロマン主義者、哲学上の懐疑主義者等、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。
     ×
 僕は未知の女から手紙か何か貰つた時、まづ考へずにゐられぬことはその女の美人かどうかである。

(芥川龍之介『僕は』より)

8

 僕は僕の住居を離れるのに従ひ、何か僕の人格も曖昧になるのを感じてゐる。この現象が現れるのは僕の住居を離れること、三十哩マイル前後に始まるらしい。

(芥川龍之介『僕は』より)

9

僕の精神的生活は滅多にちやんと歩いたことはない。いつも蚤のやうに跳ねるだけである。

(芥川龍之介『僕は』より)

10

犬はしばらく強情に、「一つ下さい」を繰り返した。しかし桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである。

(芥川龍之介『桃太郎』より)

11

「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱かかえた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういう訣でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」

(芥川龍之介『桃太郎』より)

12

(編者補足:大正14年12月発表)

併し、僕は今後、ますます自分の博学ぶりを、或は才人ぶりを充分に発揮して、

(中略)

なんでもかきたいと思つてゐる。
(中略)
 斯くの如く、僕の前途は遙かに渺茫たるものであり、大いに将来有望である。

(芥川龍之介『風変わりな作品について』より)

13

元来さう云ふイズムなるものは、便宜上後になつて批評家に案出されたものなんだから、自分の思想なり感情なりの傾向の全部が、それで蔽はれる訳はないでせう。全部が蔽はれなければそれを肩書にする必要はありますまい。

(芥川龍之介『イズムと云う語の意味次第』より)

14

(編者補足:ここで言う「軌道」とは、諸々の欲望のこと)

ただ大人たちの機関車は言葉通りの機関車ではない。しかしそれぞれ突進し、しかも軌道の上を走ることもやはり機関車と同じことである。

(中略)

しかも我々を走らせる軌道は、機関車にはわかつてゐないやうに我々自身にもわかつてゐない。

(中略)

あらゆる解放はこの軌道のために絶対に我々には禁じられてゐる。

(芥川龍之介『機関車を見ながら』より)

15

この悲劇を第三者の目に移せば、あらゆる動機のはつきりしないために(あらゆる動機のはつきりすることは悲劇中の人物にも望めないかも知れない。)ただいたづらに突進し、いたづらに停止、――或は顛覆するのを見るだけである。従つて喜劇になつてしまふ。即ち喜劇は第三者の同情を通過しない悲劇である。

(芥川龍之介『機関車を見ながら』より)