チベスナダイアリー

誰もまだ此れ程の阿呆の日常をありのままに書いたものはない。

教育の原理を学ぶ③~西洋の学校史,古代から中世~

第3回です。

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西洋の学校史

前回は、教育思想史および子供観の発展を大きくふたつの考え方から概観し、それぞれ異なる社会観に基づいているということ、またそのどちらにおいても「子供は教育が必要である」という立場であることを確認した。

今回から数回を通して、学校の広がりについての歴史を通して「教育を必要とする子供」および「社会から隔離された空間である学校で子供を学習させることこそ教育である」,現代の学校や教師は強大な力と権威を持つという感覚が、人々の共通意識にいたるまでの過程を確認する。

これは学校が急激に広まり定着していったことと大きな関係がある。一般的な「学校」は、西洋近代の学校にその由来をもつため、ここでは西洋中心の歴史をみる。

最初に漢字での「学校」という言葉について、「学」の語源は、中国古代王朝の殷に遡り、『孟子』の時には君主が人民のための「學」や「校」を建て道徳を学ばせるべきであるという語句がみえる。「学校」が単語として使われるようになったのは、さらに時代が下り後漢のころである。わが国は、天賀天臭の時代以降に学校にあたる教育機関が創立され律令時代に制度化された。言葉としての「学校」は、8世紀の文献に用例が見られる。当時の教育内容と現代のそれは大幅に異なるものではあるが、人を集めて何かを教える、という意味では共通の意味を現代も保っているといえよう。

 

1,古代の教育と学校

"school"の語源は、「何もしなくて良い時間・余暇・暇な時間」を意味する古代ギリシア語のスコレー(schole)という単語に遡る。古代ギリシアでは、イソクラテスが弁論の力を鍛える修辞学校を開設した。その後中世にいたるまで、多くの修辞学校が存在し、同時代のプラトンアカデメイアアリストテレスはリュケイオンという学園を建てた。また、ローマ帝国全盛の時代もギリシアで一定期間学ぶのが1つのスタイルであり続けた。

しかし古代の学校はスコレーの意味の通り、「労働が免除されている」特権階級のものであり、学ぶ内容も修辞の知識や自己認識の知識が中心であるなど、私たちがイメージする現代の「学校」とは大きく異なる。



2,中世の教育と学校

キリスト教が伸長する中世では、宗教教育を中心として徐々に学校が開かれていく。また、商業ルネサンスを背景に民衆教育が発展、現代の学校の原型となる。

 

(1)キリスト教の学校と宮廷学校

中世ヨーロッパの学校には聖職者養成学校と、貴族や官僚のための宮廷学校の2つがあげられる。

聖職者養成学校の代表的なものには、司教座聖堂学校と修道院学校がある。

ローマ帝国が分裂し崩壊していく古代の終焉期、キリスト教が大きく伸長し、各地に教会が建てられ、司教を頂点とした司教管区が成立した。同時期キリストの精神に倣って清貧、純潔、服従の禁欲生活を送る者が共同生活を送る場所として、修道院も形成された。司教がいる教会にはその管区の聖職者養成の「司教座型堂学校」が、修道院には「修道院学校」が併設された。

一方、フランク王国カール大帝が、王族・貴族の教育のため宮廷学校を設置した。カール大帝は領内各地の司教座聖堂教会、修道院、そして町や村にも学校を設けている。このような教育は聖職者になるものなど、一部の特権階級にかぎられていたが、9世紀になると少しづつ開放されるようになり、徐々に学ぶ者は増えていった。

 

(2)商業ルネサンスと教育の多様化

11世紀の商業ルネサンスの中で、民衆教育がそれぞれ発展していった。民衆教育として第1にあげられるのは職能別組合ギルドでの職業教育である。ギルドは共通の明確な教育課程をもっていたわけではなかったが、階級別の市民学校の原型となり、後世まで続く職能教育の源流となった。

中世初期には司教座聖堂学校・修道院学校に附属する形で、讃美歌や祈祷を学ぶ年少者向けの歌唱学校がつくられた。歌唱学校はその後、読み書き計算といった内容も教えるようになり、のちの初等教育の源流となる。それに伴い司教座聖堂学校・修道院学校は自由七科(liberal arts)など高度な教育内容を教える学校に変化した。自由七科とは、言語に関わる三学(文法、修辞学、弁証法)と数学に関わる四科(算術、幾何学、音楽、天文学)のことである。中でも言語、特にラテン語文法は重要な科目であり、「文法学校(グラマースクール)」と呼ばれるようになった。これは現在の中等教育の起源となる。聖職者に限定されていたこれらの学校が、都市有力者の要請によりその子弟も学ぶことが認められ、徐々に一般人にも開かれていくのである。

11世紀には大学も出現する。学びたい若者が学者のもとに集まり、お互いの権利を確保するため組合(universitas)を形成した。これは学者と学生のギルドであり、実学的な内容(医学、法学、神学)を学ぶ学校であった。これを元に、後の大学は、医学部、法学部、神学部、自由七科を学ぶことができる自由学芸学部の4学部で整理されていく。

以上、中世の学校は、初等・中等・高等教育という学校の力テゴリーの萌芽がみられるものの、まだかぎられた人々のためのものであり、人々も子供はだれもが学校で学ぶことが必要であるという観念ももってはいなかった。

次回は公教育の胎動の時期にスポットを当てる。

 

まとめ

学校の由来は古代ギリシャのスコレーにまで遡る。中世にはキリスト教学校と宮廷学校が教育を担っていた。商業ルネサンスのころになるとギルド、大学が誕生し、聖職者教育もまた多様化していったが、これらは限られた人々のものであった。