チベスナダイアリー

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教育の原理を学ぶ①〜序論,教育にまつわる言葉〜

学術出版会『教育の原理: 子供・学校・社会をみつめなおす』を参考に教育の歴史や意義、現在を学びます.

『教育の原理を学ぶ』シリーズの一覧

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目次

教育の原理をなぜ学ぶか

教育の価値を誰しもが信じる訳では無い。教育の原理を学ぶ理由の一つは、教育や学校に価値を感じない、あるいは興味を持たない子供や大人に対して、教育の意義を効果的に伝える手法を学ぶためである。

 

教育にまつわる言葉

教育とは

「教育とは、子供の人間形成を意図的かつ合理的にサポートしようと働きかける営みである。その営みは、子供が人間としてより良いあり方・生き方を実現することを願う、利他的な思いから行われる。」

教育基本法的には、教育の目的は「人格の完成」と「国民の育成」にある。すなわち子供を「一人前の大人」にするためのプロセスである。教育は子供の将来をより良くするため、人間形成全体に関わる壮大な試みである。

教育者には教師や保護者に限らず、子供に関わるすべての人々が含まれる。教師はその中で特に重要な役割を担う代理人である。人間は本来、自然な発達と自立した学習を行う能力を持っている。しかし、教育はその自然なプロセスに介入し、子供たちがよりよい方向へ、より高いレベルへと成長するようにサポートする。教育は単なる知識の伝達ではなく、子供たちの人格形成を目指すという点で重要である。

また教育は、子供が「一人前の大人」に相応しい価値と良さを身につけるための意図的かつ合理的な営みである。「一人前の大人」としての価値や良さは文化や社会によって多様であり、それを決めるのは大人である。大人は自然な成長(発達)に合わせて「合理的」に働きかけるために、文化・社会、子供、システムへの理解が必要である。

教育は利他的で、おせっかいな面を持つ。すなわち「子供がより良い人間形成をしてほしい」という大人の本能的な願いに基づいて行われるものである。我々は自己実現と文化・社会の継承者、創造者となることを子供に願っている。すなわち教育は大人による子供と社会への自己犠牲心から成り立つ。子供の振る舞いは子供の自由であるが、教育者は働きかけせずにはいられないものなのだ。

教育は人格を無視したテロリストの養成や企業の人材育成、知識供給のサービスとは異なり、子供がより良い人間形成を行い、社会に貢献することを目指すものである。

 

学校とは

「学校とは、教育目標とそれを達成するための教育課程を持ち、教師が児童・生徒に対して教育活動を行う有形無形の場である。」

教育は意図的であるため、明確な目的を持って行われる。公教育では教育基本法や学校教育法に基づき経営者によって教育目標は決められる。教師はそれを踏まえて、指導要領を基準にカリキュラムを立てる。教師の質は採用試験や免許で担保される。

カリキュラムには顕在的なものと潜在的なものがある。顕在的なカリキュラムとは授業など、生徒と教師に明示されているものである。一方潜在的なカリキュラムは明示されていないものであり、例えば無意識下の色の好みの強制といった男女の性差や、学力至上的な感性の強制などが含まれる。

また、校舎を持つ有形の学校以外にもサイバースペース上の学校も存在し、これは無形の学校として機能する。

一条校(公学校)は、その資金を国が一部ないし全額負担しているために、国による制限を受ける。すなわち、国家が学校運営の権限を持つということである。

 

人間形成とは

「人間形成とは、最も広い意味で「未成熟な子供」が「一人前の大人」へと成長するプロセスである。このプロセスは発達のプログラムの自律的な展開とともに、生活環境の様々な人・モノ、出来事と出会う中で起こる学習によって成り立っている。」

一人前の大人とは自己実現ができ、社会や仲間、文化の中で求められる役割を自律的にこなすことができる自立した人を指す。

人類は「一人前の大人」の手で発展し、文化や知識が伝承されてきた。

人間も他の動物と同様に、発達段階に応じた学習を通じて自然に生活環境に適応する。大人による働きかけも、この「生活環境」の一要因に過ぎない。生活環境中の要因は一生涯を通じて存在し続けるため、人間形成は人生を通して行われるプロセスである。