チベスナダイアリー

誰もまだ此れ程の阿呆の日常をありのままに書いたものはない。

小説『蝶』

『蝶』作:逢導 照

 或晴れた夏の日のことである。紫苑の花の上に、一匹の蝶が静かに止まっている。悉くが鮮やかに浮かび上がる真夏の正午頃にあって、周りには吐息ほどの風も無い。のみならず、物言わぬ植物を除いては、蝶の他に生物は見当たらない。蝶……蝶はもしかすると、蛾であるかもしれない。蝶と蛾とを弁ずるものが、色彩の美しさにあるとするならば、恐らく読者の殆どが、茶色に黒い斑が入った歪な翅を見て、この虫をむしろ蛾であると判断することは確かだろう。が、彼自身は自らを蝶であると信じていたこともまた確かであるように思われる。故にここでは、この虫を蝶と書くことにしよう。ともかくこの一匹の小さな蝶は、力んではいないものの、全身に気力を張り巡らせるように、その薄い翅を、風に任せて揺らすともなく揺らしている。脱力する翅とは反対に、六本の脚は、薄紫の小さな花をしっかりと掴み、黒黒と細い触角は、ジッと上を見つめていた。頭上には、狂気すら滲ませるほどの浅葱色一色の空に、二三の細い雲がこれまた白一色でたなびいている。子供の絵のように、まるで遠近の掴めない空である。しかし、ひときわ蝶の目を引いていたのは、淡く柔らかな光を投げかける、白い太陽であった。

 蝶は、しばらく紫苑の上でゆらゆらと羽を動かしていたが、やがて一瞬ふわりと風が吹くと、それに流されるようにして、パタパタと飛び始めた。飛び去った後の花弁には、かすかな鱗粉が鈍く光っていたが、紫苑は少しうなだれるばかりで、気に留める様子も無い。一方蝶は、必死にゆったりと翅を動かしている。丁度人間が遠泳するときと同じ調子である。死に物狂いの行動も、他者からはどこか滑稽に見えるのは、虫の世においても同じであるらしい。どうも懸命さが見えない動きではあるが、とにかく蝶自身は、触角で風の流れを読みながら、脚を身体にピタリと着け、ゆっくりと上空に羽ばたいていく。茶色の翅は半透明に透け、鱗粉がせつなく煌めく。

 木々の背丈程にまで飛び上がった頃だろうか。蝶が普段過ごす草花に比べると、考えられぬ位の高さであり、ちょっと下を向くと、桔梗の紫や百合の白がぽつりぽつりと見える。なんとも淋しい気がしてくる風景であるが、蝶は自分を鼓舞するように、上へ上へと向かっていく。それでも、当然後悔や淋しさはそう簡単には消えるものではない。すると徐々に疲れが意識されたのか、翅が重たく感じ、身体につけていた脚も少しずつ開いてきた。しかし何よりも蝶を苦しめたのは、夏の日照りであった。紫苑の上にいた時には柔らかに思えた陽射しは、いつしか蝶の翅の、特に黒い斑模様を鋭く焼き、もはや痛みすら覚えてきたというのだから、並み一通りではない。それでも必死に、痛みを吹き飛ばすようにせわしなく羽ばたいている。溺れているような動きである。そうしているうちに、青嵐だろうか、突如として容赦のない強風が蝶を襲った。なんとか踏ん張ろうとするが、疲れ、痛む身体ではもはや叶わないことは言うまでもない。

 蝶はすぐに地上近くにまで吹き戻された。辺りは鏡のような池であった。ぼんやりとした靄が立ち込め、水面には、水仙の白い花がゆかしく数本佇んでいる。蝶は力を振り絞って、ふらふらと喘ぐようにその花の元まで飛んで行き、やがて花弁の上に、力無く止まった。そうして一瞬ピタリと動きを止め、また半刻前と変わらず、霧に湿った翅を脱力させて、ゆりかごのように揺らし始めた。

 蝶は、暫くすると再び、太陽を求めて飛び上がるのだろう。それは空を統べる大日女に魅入られてか、白い羽衣を靡かせる天女達に与せんとするのか、あるいは日輪の真理を拝む為か。が、この先も翔ぶ度に陽が翅を黒く焼き、また地上に落ちることを繰り返す。そうしてその願いは、きっと永久に叶わないのである。賢人は無論、この蝶とも蛾とも知れぬ、小さな蟲の愚を笑うのであろう。しかし……僕はしかし、この淋しい蝶の、恋々たる姿を憐れみ、愛さずにはいられないのである。そして同時に、彼の美しい翅を一思いに毟り取ってやりたいとも思われるのである。

 地上では、蝶の羽音の他には、僅かばかりの音すら響かない。
(令和七年三月二十七日)