ショウペンハウエル『思索』を読む②〜第10節まで〜
ショウペンハウエル『思索』を読む②
岩波文庫のショウペンハウエル著「読書について」(齋藤忍随訳)収録の一篇、『思索』を個人的にまとめていきます。全3回を予定。
『思索』を読むシリーズはこちら
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思索する者は、直接見たように真理を把握する。対して書籍哲学者はいろいろな人の言葉や意見を比較考慮、批判し、真理に迫ろうとする。
思索の意志があっても思索できるわけではなく、時が満ちるのを待つほかはない。外からの刺激と内からの気分が幸運にも一致すれば、思索は自然に動き出す。自然と起こる思索は、そのつど異なった角度から当の問題を見る。先に見落とされていたいくつかのことにもこの分割によってあらためて気がつく。
常に思索できるとは限らないため、普通の時間は読書にあてるのが良い。ただ読書は思索の材料こそ得られるものの、あくまで代用品にすぎず、傾倒しすぎてはならない。ましてや、読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。現実世界は豊かな生命力で我々に迫ってくるため、思索にとって格好の対象となり、精神に深い感動を与えるためである。
思想家は事柄そのものを自ら直接、根本的に問題にし、またその思想や表現がすべて具体的である。ところが書籍哲学者は型どおりの陳腐な文句に流行語を織りまぜ、他者の考えたことを2次的に問題にする。
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経験も読書と同様に、思索の材料にすぎず思索の代わりにはなりえない。
真の才能に恵まれた頭脳の持ち主の作品は、その哪晰判明な表現により、どの形式
をとるにしても、必ず凡庸なものと見分けられる。
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優れた精神の持ち主は、判断をすべて直接自分が下す。彼らの意見は、ことごとく自ら思索した結果であり、言い方からもそれが明白である。
一方、凡庸な人間は彼ら自身の特徴がまったく欠けていて、世間のあらゆる意見や偏見、権威にとらわれている。
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凡人は自分の意見の代わりに権威ある他人のものを使える場合に喜びを感じる。しかもそれを使う力にも欠けている。凡人はそれぞれ違った権威を武器に戦いを交える。この戦いにおいて、根拠や論拠を武器にして対抗しようとしても得策とは言えない。彼らはすでに思考不能、判断不能だからである。